本文
籠神社文書
概要
丹後一宮・籠神社には、丹後では数少ない鎌倉時代の文書がある((1)~(3))。(1)の袖判は知行国主、妙範はその家司である。(2)の大介藤原朝臣は国守、国主は自分の代りのものを国司に任命して実際の国の支配に当たらせたのである。庁宣はその国守から留守所にあてたものである。庁宣の趣旨は、一宮仁王講田の進退について若鶴丸の主張を斥け、大谷寺の知行に任せる旨の裁許を伝えたものである。(1)の国宣は家司が(2)の添状として認めたものに国主が承認の花押をすえたもので(1)と(2)の文書は同時のものである。(3)は別の時点のものであるが、成相寺の訴えを斥け大谷寺の主張を支持した内容で左兵衛尉某は国主の家司、袖判は知行国主、目代は留守所役人である。(1)と(3)は知行国主が国守に対してかなりな権限をもっていたことを示している。
(5)の文意は把握し難いふしがあるが、葵の神事が神主家の不幸によって延ばされるべきのところ、守護所奉行人から自分が、代職を買って出て執行するという主張に対して、それでは「神慮」に背くと反対した。後半の「観音を以て執行すべき云々」のくだりは分かりにくいが、「神慮」のことは神主一人の外には相伝うべからずという掟を書き残しておくこととするという文意のようである。この文書の永享12年(1440)5月5日は丹後守護一色義貫がその月14日大和に於て殺される直前である。
(4)の文書は醍醐寺に於ける承元4年(1210)の胎蔵界結縁潅頂の関係文書、(6)の大乗寺は日蓮宗、本山は京都上京妙顕寺であるが、大乗寺住僧大仙院が不詳。
以上の文書を一巻とし、題簽に「葵之神事証文其他古文書」とし、箱書に「葵之神事其他鎌倉吉野朝古文書」と墨書。
年代 鎌倉時代-江戸時代
法量 (1) 紙本墨書沙弥妙範国宣 一紙
縦32.3cm 横50.5cm
(2) 同 大介藤原朝臣庁宣 一紙
縦32.5cm 横50.7cm
(3) 同 左兵衛尉某国宣 一紙
縦32.3cm 横49.8cm
(4) 同 結縁潅頂次第 三紙
縦29.3cm 横91.0cm
(5) 同 神主重能置文 一紙
縦24.6cm 横39.6cm
(6) 同 伊根大乗寺僧一札 一紙
縦28.0cm 横39.6cm