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閑雲山真照寺
閑雲山真照寺
もとは天台寺院で有田村(現滝馬)にありましたが、火災で天正3年(1575)大久保山に移転、一色氏の祈願により本願寺顕如上人より寺号公称の許可を得て、のちの京極高広の時代に現在地に移ったとされます(『丹後宮津志』)。
明治15年(1882)の火災により本堂等が焼失。現本堂は翌年の再建になります。山門は鐘楼門で安政3年(1856)の建立、「閑雲」の額が掲げられています。
蕪村は宮津逗留時代、当寺住持の鷺十と深い交流を持ちます。蕪村による宮津惜別の辞「天橋図賛」は、ここ閑雲楼真照寺で書かれたものです。
墓地には、経王寺天井画を描いた和田屏山の親の墓石があり、天井画のものと同一の「屏山」の印章が彫られています。他に江戸後期の宮津藩儒で書家の梶川景典の墓があります。