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第109回 学校の歴史(1) 宮津校と尽道校

印刷用ページを表示する 記事ID:0009360 更新日:2021年5月20日更新
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歴史紀行109回

学校の歴史(1)

宮津校と尽道校

 江戸時代の宮津藩では、藩校・礼譲館において藩士(武士階級)の子弟の教育が行われていました。明治維新後の明治二年(一八六九)、礼譲館は文武館、宮津藩文学所に改称され、教育が続けられていましたが、明治四年の廃藩置県にともない廃校となりました。
 こうした中、明治六年には、士族(旧武士階級)および城東村民の子弟を対象とした宮津校、士族以外の子弟を対象とした尽道校がそれぞれ開校し、近代宮津の教育が幕を開けました。宮津校の校舎は藩校・礼譲館を継ぐ宮津藩文学所が利用され、尽道校の校舎は魚屋町横町の細野万助の持家があてられました。
 明治一五年には、尽道校の校舎が西堀川通りの海岸部に新築され、擬洋風建築(日本の大工が西洋建築を模倣して建設した西洋風の建物)のデザインは、新しい時代の到来を強く印象付けたと考えられます。一方、宮津校は明治一七年に校舎や敷地を京都府立中学校に譲り、翌一八年に旧宮津城の本丸跡地に新校舎が完成しました。
 さらに明治一九年、宮津校と尽道校が合併し、宮津尋常小学校が誕生しました。男子部は宮津校の校舎を、女子部は尽道校の校舎を利用しましたが、翌二〇年、廃止となった京都府立宮津中学校の敷地(旧礼譲館の跡地)を買収し、校舎が統合されました。
 その後も複雑な経過をたどりますが、この時の校地は、現在の宮津小学校に受け継がれています。
(宮津市教育委員会)

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