ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

第107回 「大利の浜」と水産加工業

印刷用ページを表示する 記事ID:0006497 更新日:2021年3月19日更新
<外部リンク>

昭和40年頃の漁師町

「大利の浜」と水産加工業

 江戸時代から漁業を営んだ漁師町では、近代以降にもトモブトによる地曳網などが行われました。特に、明治時代から昭和中頃までの宮津湾では、二月上旬から五月まで真イワシが大漁で、約六割が加工品、残りは魚肥として処理されました。

 天橋立の小天橋(第二砂州)の砂浜が干場として利用されましたが、明治三八年(一九〇五)に天橋立が与謝郡営公園に指定されると、干場の利用が禁止され、かわりに漁師町の浜が干場となりました。特に、明治四〇年八月、如願寺川で土石流が発生し、その土砂は漁師町の埋立てに利用されました。その後、埋立てされた浜は、宮津町から大利商店(黒川利七)に払い下げられたことから「大利の浜」と呼ばれ、ジャコや魚肥の干場として利用されました。

 大正時代になると、漁師町や川向町においてホシヤ(イリコを湯がくジャコ屋)、ヤキヤ(焼魚屋)、ネリヤ(練り製品を扱う蒲鉾屋、竹輪屋)などの水産加工業が営まれました。また、地曳網などで捕れた魚を原料として煮干しの製造販売を営む業者は「雑魚屋」と呼ばれ、漁師町では大利(黒川利右衛門)のほか六軒が知られていました。

 なかでも、大正六年(一九一七)頃に生産が始まった味醂干し(桜干し)は、観光客の土産物として喜ばれ、漁師町の重要な現金収入源となりました。また、練製品の生産も行われ、現在も宮津の名産品となっています。

 

公式Facebookへのリンク<外部リンク>公式Twitterへのリンク<外部リンク>公式Instagramへのリンク<外部リンク>