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第104回 丹後縮緬と津原武
丹後縮緬と津原武
丹後縮緬の生産は、明治一五年(一八八二)頃から、「精練」と呼ばれる仕上げの工程を京都の専門業者に独占され、未精練(半製品)の縮緬を京都に出荷する状況となっていました。そのため、丹後の機屋が精練品(完成品)の風合いを確認することができず、また、「精練」(仕上げ)工程でのキズも丹後側の責任とされ、返品が相次ぎました。
「精練」工程を丹後が把握すること(国練)は、丹後の縮緬業や経済界にとって悲願となっていたのです。
こうした中、大正一〇年(一九二一)には「国練」の確立と丹後縮緬業の統一を信念とする津原武の強力なリーダーシップによって、丹後縮緬同業組合(本部は峰山町)が結成されました。大正一四年には丹後縮緬精練倉庫株式会社が設立され、織物検査所を併設する精練工場と倉庫の建設が決定されました。この計画は、丹後震災により実現が危ぶまれましたが、津原武らの尽力によって、昭和三年に国練検査が実施されました。
縮緬生産は、景気の波に大きく左右されましたが、大正一四年の鉄道開通を契機として、翌年、宮津に丹後縮緬商品館が開館し、観光客を対象とした直売が行われました。また、昭和初期の世界恐慌により、原材料の生糸の価格が低下したことから、縮緬の低価格化が実現し、丹後縮緬は「黄金時代」を迎えました。
津原武は、明治元年に現在の鳥取市で生まれ、大学卒業後に宮津町で弁護士として開業しました。与謝郡会議長、宮津町長、衆議院議員などを歴任したほか、加悦鉄道社長や宮津銀行、橋北汽船の役員を務めるなど、近代宮津や丹後の政財界で大きな役割を果たしました。