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第102回 士族と広業社
士族と広業社
明治時代になると、武士たちは新たに「士族」と呼ばれました。宮津では、上・中級武士が居住した大手川右岸で人口減少が著しく、京都や東京などへの移住がみられた一方で、中・下級武士が居住した島崎、柳縄手、京街道などでは多くの士族が宮津に残り、新しいまちづくりの原動力となりました。
明治一五年(一八八二)、京都府知事の北垣国道は、元老院議官である河田景与の求めに応じて、士族の状況について調書を提出しました。与謝郡に関しては「旧宮津藩士族、多くは旧地に居住」とし「天橋義塾を興して子弟を教え、時体に通暁するもの多し。官途に仕ふるものあり、教員と為るものあり、工商農桑を為すものあり、職工と為すものあり、就中民権主義を唱うるものもまた該義塾にあり。」と報告されています。
当時、丹後縮緬の生産に従事した士族は七〇人で、さらに事業を発展させるために、広業社が組織されました。その経営方法は、社員に縞織りの原料を供給して、製品の監督検査を行うもので、明治一七年、農商務省から七〇〇〇円の貸下げ(政府・官庁から民間への貸与)が許可されました。
しかし、松方デフレの影響は大きく、輸出用のハンカチーフの製造など努力がなされたものの、明治二三年には事業が閉鎖されました。士族たちによる経済振興の一コマです。