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第101回 宮津城跡と養蚕業

印刷用ページを表示する 記事ID:0005162 更新日:2021年1月29日更新
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宮津城跡

宮津城跡と養蚕業

 明治時代の幕開けから間もない明治五年(一八七二)頃、宮津藩士であった山本精左衛門、岩城親雄、水越新左衛門、山崎義丈らは、府中村に桑園を開園しました。さらに、明治八年に宮津城の本丸跡が払い下げられると、旧宮津藩士たちは、宮津監獄の囚人を雇って開墾し、ごぼうや馬鈴薯栽培を試みた後、りっぱな桑園に仕立て上げたと伝えられます。

 

 なかでも山本精左衛門は、女子二名を上州(群馬県)の製糸場に派遣して、最新の製糸技術を習得させ、「六人操人力運転」の機械製糸を開始しました。こうした宮津藩士たちの取り組みは、京都府や三丹地域をリードし、その後の官民一体となった経済振興において重要な役割を担いました。

 

 特に、明治一九年、京都府蚕糸業取締所が設置されると、初代頭取には山崎義丈が就き、京都府の養蚕業革新の牽引車として期待されました。また、同年に設置された与謝郡蚕糸同業組合は、宮津に事務所が置かれ、初代組合長を山本精左衛門が務めました。

 

 こうした中、明治二三年には丹後全国養蚕家大会が、明治二四年には第一回京都府養蚕養種集談会が宮津町で開催されました。宮津は旧藩士らの努力によって京都府を代表する養蚕業のセンターとなり、経済復興への足掛かりをつかんでいったのです。

 

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