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第99回 宮津監獄と刑務所
宮津監獄と刑務所
警察署、裁判所とならんで、明治一二年(一八七九)に、宮津監獄が設置されました。江戸時代の宮津藩の懲役所を受け継ぐもので、鶴賀に所在しましたが、明治一七年には島崎へ移設されました。所在地は不明ですが、江戸時代の「御蔵前」とされることから、宮津藩の倉庫があった大手川河口の西側に置かれたと推測されます。
その後、受刑者の増加により手狭となったことから、明治二六年四月には中ノ丁に移されました。この時、福知山、綾部の監獄が廃止され、宮津監獄に合併されています。
さらに、大正一一年(一九二二)、監獄が刑務所と改められたことから、宮津監獄は京都刑務所宮津支所と改称しました。全国でも数少ない女性受刑者の収容所となり、京都・大阪・奈良・和歌山・滋賀・兵庫の二府四県の女性受刑者が収容されました。次第に男性の受刑者は減少し、昭和七年には、女性の収監者が一三六人であったのに対して、男性の収監者は一人であったと記録されています。
刑務所は昭和四五年に廃止され、現在、その跡地には、法務省総合庁舎、京都府宮津総合庁舎などが建っています。
この場所は、江戸時代には、上・中級武士の居住地でした。明治維新後に多くの士族(江戸時代の旧武士階級)が京都や東京に移住する中で、空地となった広大なスペースが、監獄、刑務所、行政機関として利用されたと考えられます。