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第94回 如願寺川と上水道

印刷用ページを表示する 記事ID:0005155 更新日:2021年1月29日更新
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上水道

如願寺川と上水道

 日露戦争後の日本では、水道や電気など社会資本の整備が進み、その波は、全国の庶民生活にも波及していきました。上水道の整備をみると、京都市でも第二琵琶湖疏水、道路拡張と市電敷設にならぶ三大事業として重視され、第二代市長・西郷菊次郎(西郷隆盛の息子)のもと強力に推進されました。

 

 ほぼ同時期の宮津町でも、水源地である如願寺川からの水路が不完全であることから、明治三二年より幾つかの設計案が検討されていました。しかし、工費が莫大であることから実現には至らず、天橋立への観光客(特に海水浴客)や外国艦船の来港が増加する中で、夏の水不足が課題となっていました。

 

 こうした中、明治四〇年(一九〇七)八月二四日から二六日にかけて、のべ五〇〇ミリを越える大雨が丹後を襲いました。養老村や府中村の被害が大きく、宮津町でも如願寺谷で発生した土石流が、蛭子町、白柏町、宮町、河原町、住吉町、漁師町の広範囲を埋める事態となりました。

 

 宮津町会では、水問題の根本解決に向けて、上水道の敷設に関する答申書を翌年四月に提出し、大阪水道工務所の井上国助に設計を依頼しました。明治四四年に工事が始まり、明治四五年六月三〇日、取水所、除砂池などを備えた上水道施設が完成。舞鶴の海軍用水道や京都市に次ぎ、府内でも早い時期のものでした。

 

 これにより、夏の水不足は解消し、衛生面も大幅に向上したと伝えられます。

 

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