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第93回 近代宮津の経済復興
近代宮津の経済復興
昭和一九年に刊行された『京都府産業組合史』に「土地の人々が維新後の二十年間を「破産の宮津」と呼んでいる」という一節があります。
江戸時代から明治時代への変化の中で、宮津が「北海の良港」としての地位を失い、商工業の沈滞期を迎えたことを端的に示しています。多くの頼母子講(講による民間の金融組合の一種)が作られましたが効果は乏しく、破産、倒産が続出する状態となっていました。
こうした中、「中小商工業者に対する金融の途」を確保する目的で、明治三二年(一八九九)に宮津信用組合が設立されました。翌三三年に成立した産業組合法(日本民俗学の祖・柳田国男が農政官僚として成立に関わる)に先立つもので、全国的にも極めて早い取り組みとして高く評価されました。明治四二年の産業組合中央会では第一次表彰組合に選ばれています。
また、明治一四年には宮津の商工業振興を工夫実践する有志組織として天橋舎が設立され、大正九年(一九二〇)には宮津実業協会へと発展しました。
金融機関や経済団体の整備により、明治時代後半から大正時代の宮津町は、物資が集積する流通経済のセンターや天橋立観光の中継地として賑わいを取り戻しました。明治時代の終わりに発行された「天の橋立遊覧案内」には宮津町について「町政大いに振ひ殆ど旧に復して」と記述されています。