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第92回 「日本海時代」の中で

印刷用ページを表示する 記事ID:0005149 更新日:2021年1月29日更新
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宮津港修築計画図

「日本海時代」の中で

 明治二六年(一八九三)、宮津港が特別輸出港に指定され、日露韓貿易会社が設立されました。しかし、経営は思うようにはいかず、明治三七年、日露戦争が始まると会社は休業状態となり、明治四四年に解散に追い込まれました。

 

 一方、宮津町では、宮津港の商港(開港地)指定が進められ、明治三二年に帝国議会で可決。宮津町に大阪税関宮津支署が設置されました。しかし、勅令には年間の輸出入額が五万円に満たない場合、開港地を閉鎖するとの規定があり、貿易が中断した日露戦争の期間には、宮津町長が桂太郎首相に特例の設置を求めるなど、厳しい運営を強いられました。

 

 日露戦争の終戦後は、朝鮮東北部の清津港の開港や、日本の大陸進出に伴って日本海の重要性が高まり「日本海時代」の到来が期待されました。ただし、宮津港の状況は好転せず、いち早く鉄道が開通した敦賀港(福井県)や舞鶴港が台頭することとなりました。

 

 その後も、大正一三年(一九二四)に宮津貿易商会が設立され、宮津港振興の努力が続けられました。清津・元山と舞鶴を結ぶ朝鮮総督府の命令航路や、大連(中国)と小樽(北海道)を結ぶ定期便が宮津港に寄港するなどの成果がみられる中、昭和七年、舞鶴、宮津の統一的な発展を目指す丹後港湾協会が設立。翌八年六月、宮津港に三〇〇〇トン級の岸壁が完成しました。しかし、日中戦争、太平洋戦争が迫る中、宮津港の輸出入は伸び悩み、「日本海時代」の夢はついえました。

 

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