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第91回 国際貿易港を目指して

印刷用ページを表示する 記事ID:0005148 更新日:2021年1月29日更新
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石碑

国際貿易港を目指して

 日本海の良港として発展した宮津港は、明治時代となり衰退していましたが、明治二〇年(一八八七)、三上勘兵衛、田中甚三郎、黒田宇兵衛、小西安兵によって丹州汽船会社が設立され、宮津・敦賀間の航路が開かれました。

 

 さらに明治二五年には、宮津町長・黒田宇兵衛を中心に「宮津商港・鉄道期成同盟会」が結成され、地域振興策として特別輸出港指定運動が始まりました。この運動は、シベリア鉄道の完成によって、ウラジオストック港(シベリア鉄道の終点にある沿海州の良港。ロシアでは数少ない不凍港)の重要性が増すことから、朝鮮やロシア領ウラジオストックとの国際貿易を視野に入れて、特別輸出港の指定を目指したものです。

 

 舞鶴・小浜・敦賀などとの誘致合戦が展開されましたが、翌二六年二月、京都府第六区(丹後五郡)選出の議員・神鞭知常によって帝国議会に「宮津港ニ浦潮斯徳貿易ニ関スル船舶ノ出入及貨物ノ積卸ヲ許スノ法律案」が提出され両院を通過。同年三月、明治政府により宮津港は特別輸出港に指定されました。

 

 これを受けて、神鞭知常、三井長右衛門、今林仲蔵を発起人として、日露韓貿易株式会社が創立され、ウラジオストックや元山、釜山などとの貿易が計画されました。この会社の株主には、地元の商人をはじめ京都政財界の有力者が名を連ね、宮津港の新時代の幕開けに期待が集まりました。

 

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