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第90回 日本聖公会と聖アンデレ教会
日本聖公会と聖アンデレ教会
明治二〇年代には、ルイ・ルラーブによるカトリック教会と前後して、プロテスタント系の教会による布教が行われました。
まず、丹後教会の活動は、明治二三年(一八九〇)七月、同志社英学校の神学生・鷲山誠晴が夏期伝道として宮津を訪れたのが始まりとされています。柳縄手の旧藩士邸を借り受けて講義所を開き、同年八月には同志社英学校の卒業生・竹内甚吉が定住伝道師として赴任しました。
また、翌二四年(一八九一)には、伝道師の大獄某によって、日本聖公会(英国国教会)の活動が始まったとされています(『与謝郡誌』)。講義所は字外側にありましたが、明治三六年に現在地の島崎に移動。昭和二年(一九二七)の丹後震災で和風の建物が破損したため、翌年に聖アンデレ教会が新築されました。
設計者は、カナダで教会建築を学んだ宮川庄助と推定されます。宮川は滋賀県彦根を中心に活躍した宮大工です。スミス記念堂(国登録文化財)などの教会建設に携わり、関東大震災の復興にも尽力したことで知られます。
聖アンデレ教会は、外壁は下見板張り、屋根は急勾配の切妻造というデザインで、「西洋館の典型的なイメージを素直に具体化した愛すべき建築」(『宮津市史』)と評価されています。特に、教会堂には畳敷きの和室があり、カトリック宮津教会とともに、日本人による教会建築の受入れ方を良く示しています。