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第84回 桜山の整備と本庄氏

印刷用ページを表示する 記事ID:0005131 更新日:2021年1月29日更新
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桜山天満宮からの眺め

桜山の整備と本庄氏

 天満宮から智源寺にかけての丘陵は、桜山と呼ばれ、天橋立を眺望できることなどから憩いの場となっています。

 

 この場所は、安政三年(一八五六)、島崎の砲台築造に当り、亀ヶ丘とともに土取り場となりました。その後、明治一九年(一八八六)には、宮津城二の丸にあった昌国宮が、宮津城の廃城(はいじょう)によって荒廃していたことから、当地に本庄神社を建設し、昌国宮の再興が図られました。明治二六年(一八九三)、社務所の新築に当り境内に桜樹を多く植えたことから、「桜山」と呼ばれたと伝えられています(『丹後宮津志』)。

 

 昌国宮は、本庄家として初代・宮津藩主となった資昌(すけまさ)を祀る目的で、本庄宗發(むねあきら)が建設したものです。弘化二年(一八四五)制作の「宮津鶴賀城郭之図」をみると、昌国宮の社の前には池が描かれ、石橋が架かる景観が描かれています。

 

 さらに、桜山の麓(ふもと)にある天満宮の東側には本庄宗秀(むねひで)・宗武(むねたけ)の墓所がみられます。宗秀は幕府の老中として、第二次長州征伐など歴史的な事件に向かい合った人物で、息子の宗武は最後の宮津藩主となりました。墓所の前に架かる石橋は、昌国宮から移築されたものとされ、桜山周辺には宮津藩主・本庄氏に関連する旧跡が点在しています。

 

 桜山一帯は、明治期における藩主・本庄氏の顕彰の中で整備されたと考えられ、近代・宮津の空間形成の一コマとして注目されます。

 

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