ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

第83回 宮津藩から京都府へ

印刷用ページを表示する 記事ID:0005130 更新日:2021年1月29日更新
<外部リンク>

明治時代の行政区分

宮津藩から京都府へ

 明治二年(一八六九)二月、宮津、峰山、田辺藩は、全国に先駆けて版籍奉還を行い(全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還)、宮津藩主の本庄宗武は藩知事となりました。江戸時代の「幕藩体制」の解体と、明治政府による「中央集権」確立への第一歩となる改革です。

 

 一方、江戸時代に幕府の天領(直轄領)であった久美浜藩は、慶応四年(一八六八)一月に西園寺公望が率いる山陰道鎮撫使が到着すると、いち早く官軍の出張所が置かれ、同年五月には久美浜県となりました。

 

 明治二年(一八六九)三月、久美浜知県事や旧宮津藩などの代表が西方寺(久美浜)に集まり「三丹執政会議」を開催。境界標柱の設置や小学校建設、三丹地域に事ある時は各藩が応援することなどが、話し合われています。

 

 明治三年(一八七〇)、宮津は丹後、丹波、但馬、播磨、美作にまたがる二三郡の一つとして久美浜県に統括されます。その後、明治四年(一八七一)七月には廃藩置県(藩を廃止し、全国の行政単位を府・県に統一)にともない宮津県が設置。同年十一月からは豊岡県に編入と、目まぐるしく行政区分が変化します。こうした中、明治九年(一八七六)、全国が一道三府三五県に整理されると、豊岡県は廃止され、宮津は京都府に編入されました。

 

 この時、宮津には京都府宮津支庁が置かれ、京都府北部の中心的な都市として、新たな時代の幕開けを迎えることとなりました。

 

公式Facebookへのリンク<外部リンク>公式Twitterへのリンク<外部リンク>公式Instagramへのリンク<外部リンク>