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第82回 幕末の宮津藩と山陰道鎮撫使

印刷用ページを表示する 記事ID:0005129 更新日:2021年1月29日更新
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旧三上家住宅

幕末の宮津藩と山陰道鎮撫使

 元治元年(一八六四)、宮津藩主・本庄宗秀が老中に就任しました。大きな時代の転換期に、江戸幕府の重臣として政治の表舞台に立ち、兵庫開港問題や第二次長州征伐など、歴史的な事件と向かい合ったのです。

 

 特に、慶応二年(一八六六)の第二次長州征伐では、独断で長州藩士を釈放し、長州藩との和平を急ぎましたが、これに失敗して老中を免職。息子の宗武に藩主を譲りました。

 その後、徳川慶喜の大政奉還を経て、慶応四年(一八六八)には旧幕府と新政府が鳥羽・伏見で衝突。戊辰戦争が始まりました。宮津藩は幕府に忠誠を尽くして八幡(京都府八幡市)に出陣しましたが、敗北し一時は宮津藩滅亡の危機に瀕しました。

 

 こうした中、慶応四年一月二一日、西園寺公望が率いる山陰道鎮撫使が宮津に到着し、三上金兵衛邸(現在の旧三上家住宅)を本陣(宿舎)としました。藩主の宗武と宗秀の親子は、江戸におり留守でしたが、家臣らの尽力により降伏の意思を示すことに成功。佐幕派の疑いから巡見は厳重を極めましたが、五月には正式に帰順が認められました。

 

 三上金兵衛邸に掛けられた表札が、京都府立丹後郷土資料館に所蔵されるほか、近年、山陰道鎮撫使のルートにあたる由良でも、「長州様御休」と書かれた木札が発見され、山陰道鎮撫使の足跡を知ることができます。

 

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