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第81回 島崎台場の築造と亀ヶ丘

印刷用ページを表示する 記事ID:0005128 更新日:2021年1月29日更新
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当時の亀ヶ丘

島崎台場の築造と亀ヶ丘

 嘉永六年(一八五三)六月一八日、江戸から宮津藩に、アメリカ船が浦賀沖に来航したことを伝える使いが到着しました。いわゆる「黒船来航」です。

 

 これを受けて、宮津藩主の本庄宗秀は、海岸警備の強化を加速させ、翌年四月には田井、獅子崎、波路、犬の堂(杉末)、天橋立、江尻、日置妙見山に台場(大砲を設置する施設)を築造したと伝えられます(『宮津旧記』)。

 

 さらに、安政三年(一八五六)には、島崎を埋め立てて宮津城を防衛する台場の築造に取りかかり、翌年八月に完成しました。一日に一千人から三千人もの人足が動員され、一五門の大砲が据えられたようです(『宮津旧記』)。

 

 島崎の台場築造に当たっては、亀ヶ丘や桜山から土砂が搬出されました。このうち亀ヶ丘は「白柏砂山」と呼ばれ、稲荷神社が祀られていましたが、土取りに際して社を山上より降ろし(『丹後宮津志』)、現在の位置に移されたと考えられます。

 

 その後、亀ヶ丘には伊勢皇大神宮の分霊が勧進され、さらに明治四〇年(一九〇七)には日露戦争の忠魂碑が建立されました。古写真から皇大神宮の鳥居の様子を知ることができます。

 

 現在、この地には宮津保育所(現亀ヶ丘保育園)が建てられ、幕末から明治時代に築造されたと考えられる石垣が残されています。

 

 黒船来航の衝撃は、宮津藩にも影響を与え、城下町の姿に変化をもたらしたようです。

 

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