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第79回 宮津藩政と文政一揆

印刷用ページを表示する 記事ID:0005126 更新日:2021年1月29日更新
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義士義民追頌碑

宮津藩政と文政一揆

 江戸時代後期の宮津藩は、藩主の本庄氏が幕府要職に就いたことから出費がかさみ、藩財政の窮乏が顕著となっていました。さらに文化八年(一八一一)から一三年(一八一六)には大規模な水害が発生し、年貢の確保は、百姓に大きな負担となっていました。

 

 こうした中、文政五年( 一八二二)一二月一三日の夜、宮津藩領の加悦谷において、新兵衛、為治郎を中心として一揆が発生し、その勢力は上山田村、石川村の大庄屋に押し寄せました。翌一四日には、一揆の勢いは栗田、日置にも押し寄せ、さらに一五日には宮津城下町でも大規模な打ちこわしが行われました。これが宮津藩の歴史上、最大の事件とされ

る「文政一揆」です。現在、旧三上家住宅の柱に残る傷跡も、この時に付けられたものとされています。

 

 鎮圧後、宮津藩は取り締りを強め、一揆の鎮圧に当たった栗原理右衛門、百助親子も、百姓に同情的であったとして捕らえられました。百助は江戸の宮津藩邸に実情を訴えようと逃走しますが、宮津藩領であった近江国で捕吏(罪人を捕まえる役人)に囲まれ自殺しました。

 

 明治・大正期になると、新兵衛、為治郎や栗原親子を顕彰する機運が高まりました。大正一四年一一月、宮津町長、石川村長らによって「義士義民追頌碑」の建設が計画され、一揆が集結した文珠に石碑が建てられました。碑銘は頭山満、碑文は文豪の幸田露伴によるものです。さらに、本妙寺の境内には栗原親子の墓石があり、丘陵から宮津城下を一望することができます。

 

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