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第74回 寺町を歩く (9)真照寺と与謝蕪村

印刷用ページを表示する 記事ID:0005121 更新日:2021年1月29日更新
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真照寺

寺町を歩く (9)真照寺と与謝蕪村

 丹後時代の蕪村が描いた「三俳僧図」には、蕪村が寄宿した見性寺の蝕誉(竹渓)のほか、真照寺の恵乗(俳号は鷺十)、無縁寺の輪誉(俳号は両巴)の姿がコミカルに描かれ、こうした仲間との交流がうかがえます。

 

 ところで、蕪村は絵師としても俳人としても成功した彭城百川(松尾芭蕉の門下生)を尊敬し、百川が宮津で描いた「芭蕉像」(現在は所在不明)の見学を熱望しています。また、蕪村が宮津を離れる際に描いた「天橋図賛」も、百川「天橋松自画賛」をならったことが指摘され、百川の存在は蕪村が宮津に滞在した理由の一つと考えられます。近年の研究によると(1)蕪村より七年ほど前に百川が丹後を訪れたこと。(2)真照寺(閑雲楼)で百川が「芭蕉像」を描いたこと。(3)真照寺の恵乗(鷺十)が、この絵を「俳諧の守本尊」として大切に伝えたこと。が明らかとなり、彭城百川―真照寺の恵乗(鷺十)―与謝蕪村を結ぶ線が浮かび上がっています。

 

 さらに「天橋図賛」にある「於閑雲洞中」は、閑雲山真照寺と考えられてきましたが、宮津の俳人・東陌が「閑雲洞」という俳号をもち、蕪村と東陌の関係も注目されます。東陌は真照寺の鷺十とならぶ宮津俳壇の重要人物で、天橋立に立つ芭蕉句碑の一声塚は、東陌が京都の俳僧・蝶夢を招いて建立したものです。

 

 蕪村が訪れた宮津には、すでに彭城百川が種を蒔いた俳句文化が根付き、蕪村の創作意欲を駆り立てたかもしれません。

 

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