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第65回 宮津城下町を歩く (10)寺町の成り立ち
宮津城下町を歩く (10)寺町の成り立ち
旧宮津城下町の南西部には、一二におよぶ寺院が集中して展開します。
江戸時代の城下町には、都市の外縁部に寺院をまとめて配置した「寺町」がみられ、宮津に関しても、京街道に位置する智源寺を含めて、同様の位置づけが可能です。
特に、宮津の寺院群をみると、宮津藩主・京極高広の時代に、高広やその家族の庇護を受けて、新たに創建されたものや、他所から移動した寺院が多く、宮津城下町の建設にともない、計画的に「寺町」として整備されたと考えられます。まさに、谷筋に沿って寺が立ち並ぶ姿は、宮津城下町の都市計画を物語る景観と評価できます。
三か所の寺町を配する金沢では、一向宗に対する監視機能が重視され、また、寺院の広い境内は軍事的な作戦行動に向くことから、寺町の一般的な機能として、外敵に対する防御性が想定されてきました。ただし、日本各地の寺町をみると、藩主の菩提寺(ぼだいじ)が含まれている例や、花街や港に近接する例もあり、その機能は地域や歴史の流れの中で変化がみられるようです。
宮津の「寺町」をみると、浄土宗六寺、浄土真宗二寺、日蓮宗三寺、臨済宗一寺、曹洞宗一寺と大きな偏りがみられます。中世まで大きな勢力を誇った密教系の寺院はみられず、宮津藩主の信仰や宗教政策、まちづくりの思想などを反映しているかもしれません。