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第64回 宮津城下町を歩く (9)漁師町の成り立ち

印刷用ページを表示する 記事ID:0005090 更新日:2021年1月29日更新
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宮津城下町を歩く (9)漁師町の成り立ち

 宮津城下町の北西部は江戸時代に川向町と呼ばれ、六幹町の一つに数えられました。延宝年間(一六七三-一六八一)の「宮津藩領絵図」によると、川向町の海側が「猟師(漁師)町」、山側が「かち(鍛冶)町」とされ、弘化二年(一八四五)の「宮津敦賀城郭之図」では、海側が「漁師町」、山側が「川向町」となっています。

 

 『宮津旧記』には「此時(天正八年の細川氏の入国)までは鍛冶、猟師の二村海辺に並びて・・・」とあります。また、『慶長七年検地帳』(一六〇二)には「かち(鍛冶)」「杉ノ末かち」「浜かち」「わきの宮かち」「れうし(猟師)」という地名がみられ、江戸時代に宮津城下町が成立する以前には、「かち」「れうし」という地名が、広い範囲に散在した可能性があります。

 

 やはり『宮津旧記』によると、慶長五年の田辺籠城に際して、漁師が細川幽斎を田辺へ守り送った褒美により、漁業権を与えられたと伝えられます。この時の漁師の居住地は不明ですが、江戸時代に城下町が整備された時点では、現在の地に猟師(漁師)町が定まったと考えられます。現在の漁師町では、宮津湾を主な漁場として地引網などが行われています。なかでも「越中網」は、天正年間に細川忠興が越中(富山県)で行われた台網漁を伊根浦に導入したものと伝えられ、その名称は忠興が「越中守」と称したことに由来します。

 

 漁師町をめぐる伝承は、細川時代に遡るものが多く、漁師町の歴史的な成立過程は、興味深い研究課題です。

 

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