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第62回 宮津城下町を歩く (8)三上家と北前船

印刷用ページを表示する 記事ID:0005088 更新日:2021年1月29日更新
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加藤長助の「航海日記」による航路の復元

宮津城下町を歩く (8)三上家と北前船

 三上家は屋号を「元結屋」といい、糸問屋や酒造りのほか廻船業を営みました。なかでも廻船業は、大阪と北海道を日本海経由で往復し、A港で安く仕入れた商品を、B港で高く売る商法(買積み)により、莫大な利益を得たとされ、こうした廻船は北前船と呼ばれています。

 

 外の浦(島根県浜田市)の清水家に残る「諸国御客船帳」という古文書には、安政三年(一八五六)から明治八年(一八七五)にかけて、三上勘兵衛が所有する宝栄丸、恵宝丸、宝求丸、宝寿丸、宝来丸、宝昌丸が外の浦に入港し、「切そうめん」・「生蠟」を売買した記録が残されています。また、「諸国御客船帳」には八名の船頭(廻船の船長で、商売の才覚にも優れていた。)の名前がみられ、由良出身の人たちが、北前船の船頭として活躍したことがわかります。

 

 由良の船頭の一人である加藤長助の「航海日記」が残され、航路や入港地、売買の中身などを具体的に復元することができます。例えば、明治二六年には、三上家が所有する宝寿丸に乗って、小樽(北海道)から大阪を往復しており、北前船のダイナミックな商業活動を垣間見ることができます。そのほかにも、宮津城下町では大津屋、金屋、袋屋、人参屋、鍵屋、種屋、荒木屋、角屋などが廻船を営んでおり、江戸時代から明治時代の宮津の経済を支えていたと考えられます。

 

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