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第61回 宮津城下町を歩く (7)白柏町と旧三上家住宅

印刷用ページを表示する 記事ID:0005087 更新日:2021年1月29日更新
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旧三上家住宅

宮津城下町を歩く (7)白柏町と旧三上家住宅

 江戸時代の宮津城下町は、西堀川通を境として東側は直線道路が方形に整備されたのに対し、西側では地形に沿った曲線道路が南北にのび、如願寺川北側の川向町、南側の白柏町が幹町とされました。白柏町については、慶長七年(一六〇二)の「宮津下村検地帳」に「池谷」、「かハら」(河原)、京極期の絵図(兵庫県立歴史博物館蔵)に「河原町」の地名がみられ、河原町、葛屋町、吹屋谷、池谷を枝町としたと考えられます。このうち葛谷町は、幕末から明治初期頃に、山王祭に曳き出す屋台「蛭子山」にちなんで、町名を蛭子町に変更しました。また、地名の成立年代は不明確ですが、現在、河原町と漁師町の間は住吉となっています。

 

 この地区を代表する伝統的な建物として、旧三上家住宅をあげることができます。三上家の屋号は「元結屋」。糸問屋や廻船、酒造りを営み、米会所元方や町名主を務めるなど、宮津藩有数の商家です。現在の建物は、天明三年(一七八三)の晒屋火事の後に建てられたもので、外壁や垂木を漆喰塗りで仕上げるなど、徹底した耐火構造が特徴です。端正な数寄屋風の造りから、慶応四年(一八六八)には山陰道鎮撫使・西園寺公望の本陣として利用されました。

 

 大規模な商家建築や酒造り施設、建築(普請)に関わる古文書が良く保存されていることから、平成一五年に国の重要文化財に指定。宮津城下町の江戸時代の商家建築を伝える唯一の建物として重要です。

 

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