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第60回 宮津城下町を歩く (6)新浜の成立
宮津城下町を歩く (6)新浜の成立
江戸時代前期の宮津城下町は、魚屋町、河原町、漁師(猟師)町が海岸に接し、一八世紀まで、わずかな埋立地(築出)がみられるのみでした。
こうした中、文化一四年(一八一七)には、須津村の浅七を頭取として、町中の男子全員の出役によって大規模な埋め立てが行われました。大手川の河口に堆積した砂を魚屋町・河原町の北側に持ち運び、この埋立地は当初、魚屋町新道、西新道と呼ばれました。また、弘化四年(一八四七)になると、魚屋町新道の一部に家が建ち始め、新地一番地とされました(『宮津事跡記』)。
この辺りが、新浜(東新地)と呼ばれる一帯で、天保一三年(一八四二) 、城下町中に散在していた置屋が新浜(東新地)に集住するように命じられると、花街として発展しました。江戸時代の花街は、治安風俗の統制のために、周囲を堀や土塁によって囲うのが一般的で、宮津では「囲ヒ門戸」が設置されたようです。
置屋の酌取女は源氏名をもち、「芸者」「芸子」とも呼ばれました。遊芸として三味線を携えて客座に上がり、「手踊り興行」(踊り)を行っています。
文久三年(一八六三)、新浜(東新地)の置屋に商売替えの命令が出されます。猶予期間が設けられ、慶応三年(一八六七)に万年町新地に移転。江戸時代の花街・新浜の歴史は幕を下ろします。