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第59回 宮津城下町を歩く (5)職人町と和貴宮神社
宮津城下町を歩く (5)職人町と和貴宮神社
江戸時代、万町の南側は職人町と呼ばれ、切戸町、大久保町、松原町、木の辺(部)町で構成される宮津城下町の六幹町の一つでした。
和貴宮神社の南側には町人街が広がり、大久保町に侍屋敷、切戸町や木の辺町、松原町に足軽屋敷が展開しました。また、松原町は城下町の南の境界とされ、幕末期の絵図には番所(警備のために置かれた施設)が描かれています。
京極時代の絵図をみると、「分ノ宮」(和貴宮神社)南側の一角が職人町、神社から南にのびる道路沿いが田町とされ、その東に紺屋町、西に京街道という地名がみられます。その後、文久二年(一八六二)正月には、職人町が宮本町、切戸町が京口町と改められ、現在にいたっています。
ところで、田町、紺屋町、京街道などは、和貴宮神社から南にのびる直線道路を基軸として区画され、職人町の都市計画において、和貴宮神社は中心的な位置を占めています。
本神社は、一宮である籠神社の別宮と伝えられ(「宮津府志」)、正徳三年(一七一三)の棟札の記述から、少なくとも永正二年(一五〇二)には神社の存在が確認できます。江戸時代の「丹哥府志」には、境内の水越岩が、かつては海中にあったという伝承がみられます。また、「丹後旧事記」には「分の宮有宮津市場東渚」という記述があります。「宮津市場」という地名は中世まで遡る可能性があり、宮津のまちの成り立ちを考える上でも、和貴宮神社は重要です。