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第58回 宮津城下町を歩く (4)万町と「万町絵図」

印刷用ページを表示する 記事ID:0005084 更新日:2021年1月29日更新
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宮津城下町を歩く (4)万町と「万町絵図」

 江戸時代の万町は、宮津城下町の六幹町の一つで、金屋谷や文庫町(現在の柳縄手の一部)を含む範囲です。京極時代の絵図では東部が「呉服町」、西部が「かちや町」(鍛冶屋町)。また、弘化二年(一八四五)の絵図では東部が「万町」、西部が「鍛冶屋町」と表記されていますが、一般的には、これらを含めて万町と呼んでいたようです。

 

 万町自治会には、天明五年(一七八五)から明治八年(一八七五)に作成または写された四点の「万町絵図」が保管され、万町の移り変わりを知ることができます。

 

 まず、最古の絵図は、元禄二年(一六八九)作成の絵図を天明五年(一七八五)に写したもので、「金屋谷」という地名が、貞享四年(一六八七)に名づけられたことが記されています。また、嘉永五年(一八五二)に作成され、安政四年(一八五七)に改められた絵図には、安政三年に島崎の砲台を築くために砂山を取り払い、砂山道を開いたことが記されています。

 

 こうした絵図には、各家の持ち主や屋号(借家の場合は住人)、家の間口や道路、水路の幅が詳細に書き込まれ、町家が連続する江戸時代の町並みを知ることができます。

 

 現在、休館中の宮津市歴史資料館には、万町の町並みを復元した模型が展示され、庶民の生きいきとした生活ぶりを見ることができます。

 

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