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第57回 宮津城下町を歩く (3)辛皮山の争論と本町

印刷用ページを表示する 記事ID:0005083 更新日:2021年1月29日更新
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宮津城下町を歩く (3)辛皮山の争論と本町

 「辛皮山奉恩感謝図」または「入木之図」と呼ばれる絵画は、旧野田川町出身の狩野派の絵師・玉溟により描かれたもので、江戸時代末期の本町や宮津城の姿を伝えてくれます。

 

 江戸時代、上宮津村(宮津藩)と大股村(田辺藩)の間で、二十年以上にわたる山論(山の境界をめぐる争論)がおこり、貞享五年(一六八八)、幕府により上宮津村の主張が認められました。

 

 詳細な経過は「上宮津村辛皮与股村山論裁許裏書絵図」によって知ることができ、確定した境界は、現在も宮津市、舞鶴市、福知山市(旧大江町)の市境として受け継がれています。

 

 長期にわたる争論中、本町の商家が上宮津村を経済的に支援したことから、その遺徳をしのんで、毎年、上宮津村から商家に薪を送る儀礼が行われました。「辛皮山奉恩感謝図」は、その様子を描いたもので、上宮津から京街道を通って本町まで薪を持って歩く行列をみることができます。江戸時代の宮津城下町の風景や町並み、人々の服装やしぐさを描いた数少ない作品で、当時の生活を知ることができる資料として貴重です。

 

 さらに、本町の奥には宮津城が描かれ、大手門の左右で壁が非対称になる様子や、二ノ丸(または本丸)の石垣や櫓などがみられます。その姿は、明治時代に撮影された大手門の写真に良く似ており、江戸時代末期の宮津城を写実的に描いた唯一の作品として注目されます。

 

宮津の歴史

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