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第56回 宮津城下町を歩く (2)本町と大手側
宮津城下町を歩く (2)本町と大手側
大手橋を起点として西側に広がる本町は、江戸時代に宮津城の正面玄関である大手門と接し、宮津城内と城下町をつなぐ出入口として重要な役割を果たしました。
宮津城と城下町を隔てる大手川には大橋が架かり、弘化二年(一八四五)の「宮津鶴賀城郭之図」には、長さ七間(約一三メートル)とあります。江戸時代の大手橋は、現在より約一〇メートル南側に位置したと考えられ、かつて大手川の水中より橋の礎石が出土したと伝えられています。
また、大手川の西岸には、本町から万町にわたるように広場がみられ、目安箱(町人や百姓などが政治・経済や日常生活の要望を投書する箱)や高札(新しい法例などを町人や百姓などに周知する掲示板)が設置されています。さらに広場の南側には宮津藩の郡会所があり、江戸時代には、この広場が公共的な空間だったことを示しています。
その後、この場所には警察署、宮津町役場が置かれたほか、昭和二四年には現在の郵便局の裏手にあった公会堂(元・郡会議事堂)の一部が移築され、市民の集会や展覧会、柔道大会などが開かれたようです。また、昭和三七年には宮津市庁舎が建てられ、公共的な空間として利用され続けています。
宮津城の痕跡が失われた後も、江戸時代の宮津城下町の都市計画は、現在のまちの骨格の中に生き続けているかのようです。