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第55回 宮津城下町を歩く (1)柳縄手と武家屋敷

印刷用ページを表示する 記事ID:0005081 更新日:2021年1月29日更新
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柳縄手と武家屋敷

宮津城下町を歩く (1)柳縄手と武家屋敷

 柳縄手は、北は大手橋前から南は京口橋に至る大手川に接する街筋で、慶長七年(一六〇二)の「宮津下村検地帳」にみられる「柳町」が、のちの柳縄手と考えられています。

 

 江戸時代には、上中級クラスの武家屋敷が軒を連ね、明治時代には天橋義塾の中心人物となる小室信介、沢辺正修らを輩出しました。

 

 現在、長屋門が残る大村邸跡は、江戸時代に藩医であった小谷仙庵が邸宅としたところで、仙庵の次男・謙次郎は、明治時代に立憲政党に加盟した人物として知られます。

 

 また、明治二十年頃、小谷家が峰山に移った後は、旧藩士である大村政智によって邸宅が受け継がれました。政智は東京で法学を学び、判検事弁護士の資格を取得。明治一三年(一八八〇)に帰郷した後は、天橋義塾の株主となったほか、立憲政党に加盟するなど、自由民権運動に強い関心を寄せました。

 

 大村邸は、数少ない武家屋敷として貴重な建物でしたが、昭和六一年に焼失。かろうじて長屋門のみが残され、大村家の好意によって、翌年「ふれあい広場」として整備されました。

 

 現在、柳縄手の町並みに江戸時代の面影を探ることは困難ですが、大村邸跡の変遷には、明治時代に新たな国家像を模索して躍動した近代宮津の息遣いが刻まれています。

 

 

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