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第54回 宮津城下町の都市計画

印刷用ページを表示する 記事ID:0005080 更新日:2021年1月29日更新
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宮津城下町の都市計画

宮津城下町の都市計画

 江戸時代、宮津城の再建とともに、京極高広によって城下町の整備が進められました。『宮津日記』の記述から、寛永年間には、城下町の骨格が完成していたと考えられます。

 

 まず、大手川東岸の城内には、家老クラスの上級家臣の屋敷が配置され、大手川西岸の柳縄手周辺には上中級クラスの武家屋敷が軒を連ねました。また、その西側には、町人街が形成され、寛永年間には本町、魚屋町、万町、職人町、白柏町、川向町の六幹町の下に、複数の枝町や町組が組織されました。

 

 町人街をみると、西堀川通の東側では直線的な方形の道路が整備され、海側から魚屋町、本町、万町が形成されました(新浜は埋め立て後に成立)。

 

 一方、西堀川通の西側では海岸線に沿って曲線的な道路が伸び、西堀川通の南側の金屋谷には寺院が集中する、いわゆる寺町が作られました。

 

 宮津城下町の構造をみると、西堀川通の辺りを境として、まち全体の配置が組み立てられており、現在の都市計画に通じる発想を読み取ることができます。こうした町の形は、現在も地名とともに継承され、城下町として発展した宮津の歴史を垣間見ることができます。

 

 

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