本文
第52回 宮津城の面影(2)宮津城三の丸と大膳川
宮津城の面影(2)宮津城三の丸と大膳川
細川氏のあと、宮津藩主となった京極高知は田辺城を拠点としましたが、高知の死に際して宮津藩は高広(宮津城・七万石)、高三(田辺城・三万石)、高通(峰山陣屋・一万石)に分割され、高広によって宮津城が再建されました。『宮津事跡記』などによると、寛永二年(一六二五)には城郭が完成していたようです。
また、残された宮津城の絵図から、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置される縄張をもったと考えられ、二の丸、三の丸は、堀で囲まれていました。
現在、二の丸を囲む堀は、完全に埋没し痕跡をみることはできませんが、三の丸を囲む堀は大膳川として受け継がれています。宮津駅の東側から大膳橋にいたる直線的な流れは、人工的に作られた堀の跡であることを物語り、特にグンゼ宮津工場の付近では、その様子を真近に観察できます。
大膳川は、地表面に残る宮津城の数少ない遺構として重要で、宮津城の大きさを体感する目印となります。