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第50回 宮津城を発掘する

印刷用ページを表示する 記事ID:0005069 更新日:2021年1月29日更新
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宮津城

宮津城を発掘する

 現在、地表面で宮津城の痕跡を見つけることは困難ですが、一九八〇年以降、建物の建替えや大手川の改修などに際して、宮津城跡の発掘調査が行われ、その存在が証明されています。

 

 特に、京極高広によって再建され、幕末まで歴史を刻んだ宮津城は、多くの絵図にその姿をとどめますが、絵図と同じ場所から堀や石垣が発掘され、宮津城の規模を具体的に復元することができます。なかでも宮津駅の北側で行われた発掘調査では、池や庭の跡が発見されました。幕末期の絵図には、二の丸の東南隅に池や「稲荷」、「一ノ御殿」などが描かれており、その位置関係はぴったりと一致します。

 

 さらに下層からは、細川藤孝が築いた宮津城が見つかっています。細川時代の宮津城の絵図は未発見で、その姿は完全に不明でしたが、発掘調査によって、細川時代の石垣や石組などが確認されました。とりわけ、北京都信用金庫(宮津警察署跡地)の建設に伴う発掘調査では「一之」と墨書された天目茶碗が出土し、細川藤孝の重臣・沼田一之斎を指すと考えられます。

 

 こうした発掘調査は、開発の中で仕方なく消滅していく遺跡を、記録の上で保存する「緊急調査」と呼ばれるもので、これまで宮津城跡では、16回以上の緊急調査が積み重ねられています。いずれも小規模な発掘ですが、地道な調査を続けることで、幻であった宮津城が甦りつつあるのです。

 

 

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