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第49回 宮津城の築城
宮津城の築城
天正八年(一五八〇)、織田信長は細川藤孝に対して宮津城の築城を許しました。
現在、細川時代の宮津城の跡は残っていませんが、地下を発掘調査すると、石垣や屋敷跡、生活道具などが出土します。特に、石垣をみると、地盤沈下を防ぐために石垣の下に木を組んだ施設(胴木)が設置され、平地に城を築くために高い土木技術が使われています。
それまで中世の城は、山の上に築くのが一般的であり、海に望む低地に築かれた宮津城は、まさに戦国時代において最先端の城でした。
当時、中国地方では、石見銀山を経済的な基盤として毛利氏が力をつけ、織田信長に対抗する勢力となっていました。水軍が発達した宮津は、信長により毛利討伐の最前線に位置づけられ、軍事的な拠点として海に面する宮津城が築かれたとする説があります。
しかし、中国出兵を直前にひかえて「本能寺の変」が勃発し、細川の毛利討伐は中止。すでに中国出兵していた羽柴(豊臣)秀吉が大急ぎで引き返して、大山崎で明智光秀を討伐し、後に天下統一を果たしました。
歴史に「もし」は禁物ですが、本能寺の変がおきていなければ、宮津城は信長の毛利討伐において重要な役割を果たし、その歴史的な評価は違ったものになっていたかもしれません。いずれにしても、細川が築いた宮津城は、日本の歴史において大切な転換点に位置しており、その意義をさらに掘り下げて評価する必要がありそうです。