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第48回 細川氏と八幡山城跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0005067 更新日:2021年1月29日更新
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細川氏と八幡山城跡

 現在の宮津市街地は、丹後の重要な近世城下町です。その成立には細川藤孝・忠興の丹後入りが大きな意味をもち、天正七年(一五七九)に明智光秀らが「丹後へ出勢」したという記事がみられます(『信長公記』)。細川氏が織田信長の意向を受け丹後入りした点、明智光秀と行動をともにした点が注目され、最初の居城として八幡山城跡が候補地となっています。

 

 ところで中世の山城は、山の尾根を平坦に削って曲輪(建物を築いたり兵が駐屯する)をつくったり、堀切や土塁をつくって防御性を高めた「土の城」でした。丹後では約五〇〇ヶ所の「土の城」が確認されています。

 

 これに対し、織田信長は瓦を葺いた天守閣や石垣をつくり、日本の城つくりに革新を起こしました。こうした特徴をもつ城は、安土城(滋賀県)を典型とし、織田信長や家臣の羽柴(のちの豊臣)秀吉により盛んに築かれたことから、「織豊系城郭」と呼ばれています。

 

 八幡山城跡は、全長約五〇〇メートルの範囲に曲輪が連続的に配置され、中世の山城の伝統が色濃く認められます。しかし、山頂の主郭には石垣が残されており、丹後では他に例のない「織豊系城郭」と評価されています。こうしたあり方は、細川氏が信長や明智光秀の力を背景として丹後に進出した状況を反映し、細川氏と八幡山城跡の関係をよく物語っています。

 

 八幡山城跡に登ると、眼下に天橋立や宮津市街地から上宮津を一望することができ、この城の軍事的な重要性を実感することができます。

 

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