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第41回 天橋立神社
天橋立神社
文珠から天橋立をしばらく歩いていくと、濃松と呼ばれる場所に天橋立神社が佇んでいます。
江戸時代に製作された「天橋立図」(大倉文化財団)などには、智恩寺の境内に神社の建物や参拝する女性が描かれています。また、宝暦九年(一七五九)の『智恩寺寺格併山林境内寺領等書上書』に「橋立明神社」、「拝殿」、「石鳥居」とあることから、江戸時代のある時期まで、天橋立神社が智恩寺の境内に存在した可能性を指摘する意見もあります。
こうした想定が正しければ、現在の場所に移動した年代は研究課題ですが、中世に描かれた「慕帰絵詞」や雪舟「天橋立図」、「成相寺参詣曼荼羅」などには、現在と同じ場所に祠が描かれており、参詣者の姿や宴会をする様子もみられます。
江戸時代後期以降、天橋立の砂州が南にのびる以前には、濃松は文珠から舟で天橋立に渡る上陸地点に当たりました。天橋立神社は、天橋立や府中への入り口として重要な位置を占めたと考えられ、古くから信仰の対象になっていたことは注目されます。現在も阿蘇海を望むように石鳥居が建っており、天橋立神社と海の関連がうかがえます。
また、神社の周辺には、多くの石燈籠が点在し、「奉納者都踊記念」、「宮津宿屋有志者」などの銘文がみられます。花街として賑わった新浜や旅館業者による信仰は、天橋立神社の性格を考える上で興味深い問題です。