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第40回 保昌塚と藤原保昌

印刷用ページを表示する 記事ID:0005058 更新日:2021年1月29日更新
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保昌塚と藤原保昌

 文珠山手通りの背後の丘陵上に、保昌塚(ほしょうづか)と呼ばれる石造物が建っています。

 

 保昌とは、平安時代に丹後国守(都から派遣された役人)を務めた藤原保昌(やすまさ)のことです。摂政の藤原道長に仕え、摂津、大和、肥後、日向の国守を歴任したほか、武勇にも秀でたと伝えられ、丹後国守の中で最も著名な人物です。

 

 妻は平安時代を代表する歌人の和泉式部で、天橋立を舞台とした作品を多く残しています。また、和泉式部の娘・小式部内侍(こしきぶのないし)は、中納言の藤原定頼(さだより)からの和泉式部の代作を疑う質問に、「大江山いく野の道の遠ければ またふみもみず天の橋立」という名歌で答えたという逸話があり、その和歌は百人一首の一つとして親しまれています。

 

 当時、貴族の間で、天橋立は歌枕(うたまくら)の地として知られており、和泉式部や小式部内侍の活躍は、天橋立への憧れをさらに高めたことでしょう。

 

 さて、保昌塚は、石を塚状に積み上げ、その上に板碑(いたび)と呼ばれる石造物を建てたもので、元応二年(一三二〇)の銘文があります。年代のわかる板碑としては、阿蘇海周辺において最古級の貴重な資料ですが、藤原保昌の時代とは約三〇〇年の開きがあり、これを保昌の塚とすることは困難です。藤原保昌の足跡と結びつけ、名所・旧跡として整備されたものと考えられます。

 

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