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第39回 涙ヶ磯と身投石
涙ヶ磯と身投石
宮津から文珠の智恩寺に向かう途中に、涙ヶ磯(なみだがいそ)と呼ばれる砂浜があります。江戸時代に作られた地誌『丹哥府志』には、
平家の屋島合戦の敗北後、小松(平)重盛の五男・忠房に仕えていた花松という白拍子(歌舞を演じる芸人)が、『共に磯の藻屑とならん』と、この大岩の上より身を投げた。
という物語が収録され、身投石とも呼ばれています。この場所は「丹後国天橋立之図」では「涙磯」、「与謝之大絵図」では「身投岩」として描かれ、江戸時代から名所として知られていたようです。
「花松が涙ヶ磯で身を投げる」という筋書きは、世阿弥(ぜあみ)が改作に関わった能『丹後物狂(たんごものぐるい)』にもみられ、「丹後国天橋立之図」では「涙磯」について「能の花松ゆかり」とされています。『丹哥府志』の白拍子の物語は、『丹後物狂』をもとにして、江戸時代に成立した可能性が高いと思われます。
ところで、智恩寺の古文書によると、天橋立を訪れた順礼者が、当地で行き倒れになった場合には、智恩寺に埋葬されたと伝えられます。また、死因や身元が不明の時は、門前の住人によって介抱され、身投石の脇山に仮埋葬されました。
涙ヶ磯には、江戸時代に建てられた供養塔がみられ、多くの順礼・参詣者と丁寧に向かい合ってきた、当地の歴史を物語ります。