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第38回 鶏塚の物
鶏塚の物
江戸時代に作られた地誌「丹哥府志」には、鶏塚の位置を「しらぬ坂の下」として、小さな丘がえがかれています。また、その由来として、次のような話がみられます。
丹後守の(藤原)公基が、丹後国をまわっていた時、日置の金剛心院で、和泉式部が捨てた紙を発見し、「いつしかと侍ける人に一聲も聞かせる鶏のうき別れかな」という和歌が書かれていた。その紙を泪の磯(涙ヶ磯)に埋めて三重の塔を建て、鶏塚と名付けた。
さらに、吉田重房『筑紫紀行』などに、「この里に困難があった時、掘り出すべしという文殊の御誓いによって、金の鶏ひとつがいを埋めた」という物語がみられるほか、『宮津府志』には「除夜のたびに鶏鳴の聲が聞こえる」とあり、すでに江戸時代には、鶏塚について複数の由来が語られていたようです。
『丹哥府志』によると、公基が建てた「三重の塔」は、室町時代に埋まっていたものを掘り出し、文殊堂(智恩寺)に移したと伝えられます。現在、智恩寺境内に建つ「和泉式部の墓」と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、これに当たるとされています。また、老翁坂トンネルの南側の丘陵に祠が建てられ、鶏塚として整備されています。