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第34回 智恩寺門前町の発展

智恩寺門前町の発展
江戸時代に天橋立への参詣者が増加する中で、天和年間(一六八一~八三)には、参詣者が多い時に限って、智恩寺の門前に「出茶屋」が設けられました。また、延宝八年(一六八〇)には、勘兵衛、庄三郎、八太夫が、(1)「若き女」はおかない、(2)魚鳥の商売はしない、(3)泊り宿はしない、という三点を条件として、智恩寺から「茶屋屋敷」を借りており、これが文珠の四軒茶屋のはじまりと考えられます。
享保十一年(一七二六)に作成された「丹後天橋立図」には、智恩寺の山門の南側に四軒の茶屋が描かれ、旅人が休息する床几(木や竹製の長い腰掛)がみられます。
さらに西国順礼に訪れた旅人の日記には、
「さあさあ、御上がりなされまし。名物知恵の餅(見れば小豆餅と黄粉餅)、才覚田楽(見れば蒟蒻・豆腐)、思案酒(見れば白酒・甘酒・柳かげ・焼酎・味醂・並酒)、是ば御上がり、御上がり。」
と、客引きの生き生きとした描写がみられ、智恵の餅などの名物が、すでに定着していたことがわかります。同じ日記には、宮津城下町と文珠を往復する船の船頭が、「片枝の松」・「赤岩の明神」を解説する情景が記述され、まるで現在の観光ガイドのようです。
庶民の旅が盛んになった江戸時代には、現在の観光の原型を見ることができます。