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第33回 切戸の渡し

印刷用ページを表示する 記事ID:0005044 更新日:2021年1月29日更新
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切戸の渡し

切戸の渡し

 京都・大阪方面から天橋立や成相寺にいたる西国順礼は、元来、加悦谷を通るルートが一般的でしたが、元禄・宝永期(一七〇〇年前後)には、普甲峠から宮津城下に入り、船で文珠に渡る順礼客が増加したとされています。貝原益軒の『己巳紀行』にも「宮津から文珠へ出るには、舟にてゆけば一里に近し、陸行すれば坂ありて遠し」とあり、船による旅が便利だったようです。

 

 さらに文珠と天橋立の間には、「切戸の渡し」と呼ばれる船が行き来をし、文珠は天橋立に至る交通の要衝となりました。

 

 当初、切戸の渡し船は、智恩寺北側の見樗ヶ鼻から出ていましたが、弘化二年(一八四五)に、「建尾(見樗)ヶ鼻」は不案内で旅人にわかりにくいので、約六〇間南の「観音堂浜手」に移動したいとの願書がみられます。松翁斎「天橋立図」には、智恩寺門前の海岸が石積により護岸され、船着き場が整備された様子が描かれています。

 

 門前から小天橋(廻旋橋)に向かう途中には、大坂の商人・大和屋藤兵衛が、宮津の有力商人であった宝来屋儀八、酒見弥兵衛に世話人を依頼して寄贈した灯明台があり、船着場を照らす灯台として機能したと伝えられます。また、「丹後国天橋立之図』には、ほぼ現在の位置に智恵の輪燈籠が描かれ、「智恵の輪も文殊汀に時雨居り」という俳句が知られています。
 

 

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