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第29回 智恩寺再興と多宝塔

印刷用ページを表示する 記事ID:0005040 更新日:2021年1月29日更新
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多宝塔

智恩寺再興と多宝塔

 二度にわたり中国・元に留学した禅僧の嵩山居中は、嘉暦元年(一三二六)頃、智恩寺の中興を果たし、密教寺院として創建された智恩寺は、禅宗寺院に生まれ変わりました。

 

 しかし、応永年間(一三九四-一四二八)には「荒廃が久しく及んだ」と伝えられ(『対潮記』)、禅寺としての復興も順調にはいかなかったようです。こうした中、文明一八年(一四八六)には、相国寺の彦龍周興が智恩寺再興の勧進を行い、明応一〇年(一五〇一)、丹後守護代の延永春信や大谷寺住持・智海らによって、多宝塔が建てられました。

 

 この多宝塔が、雪舟が「天橋立図」(国宝)描いたものでるならば、「天橋立図」は雪舟が八二歳頃の作品と確定できます。しかし、現存する多宝塔は「天橋立図」のものと様式が異なり、明応一〇年(一五〇一)以前にも別の塔が存在したかもしれません。このように、智恩寺の多宝塔建立は、「天橋立図」の年代論争においても注目を集める問題です。

 

 智恩寺の多宝塔には密教の大日如来像が安置され、禅宗と密教の一体化を目指す智海の思想が反映されています。特に、雪舟「天橋立図」には、対岸の府中に位置する大谷寺にも多宝塔が描かれ、両地域を結ぶ象徴のようにもみえます。
 

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