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第25回 文珠の原風景

印刷用ページを表示する 記事ID:0005025 更新日:2021年1月29日更新
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文珠の原風景

文珠の原風景

 現在、文珠と天橋立は、小天橋(回旋橋)、大天橋と呼ばれる橋梁で結ばれていますが、天橋立の南砂州が形成されたのは江戸時代後期と新しく、それ以前、文珠と北砂州の間には、約一〇〇メートルの水道(切戸)が横たわっていました。

 

 また、文珠集落も大部分が江戸時代以降の埋め立て地で、それまで智恩寺の西側には、入江が広がっていました。享保一一年(一七二六)に描かれた『丹後国天橋立之図』には、入江に「天女嶋」「無字塔」「菩薩岩」が書き込まれ、このうち「無字塔」は、文珠・桜山前の踏切の北側に建つ三角五輪塔に当たると考えられます。

 

 さらに、現在の天橋立駅の裏側には「どん淵」と呼ばれる沼池が広がり、埋め立てされずに残された入江の名残とされています。江戸時代の『天橋立真景図巻』(智恩寺蔵)などには舟屋や干し網が描かれ、近年まで舟屋が残されていました。

 

 このように、江戸時代から知られてきた名所や地形を丹念にみていくと、埋め立て以前の文珠の原風景を復元することができます。かつて智恩寺の境内は、海に突き出した岬のような姿をみせ、天橋立に船で渡る交通の要衝に位置したといえます。

 

 まさに文珠は、海を挟んだ天橋立への玄関口に当たり、その地理的な重要性が浮かび上がってきます。

 

 

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