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第23回 傘松公園の誕生
傘松公園の誕生
明治三三年(一九〇〇)頃、吉田皆三により傘松に展望台が開かれたとされています。吉田は、宮津への鉄道の延長や観光振興に尽力し、大正元年(一九一二)に逝去しました。
明治二九年(一八九六)、この地を訪れた中国文学者・久保天随の旅日記にも「傘松」が登場し、この頃には、傘松が天橋立の眺望地点として認知されていたようです。また、同書には「俯して股間より望見するを例と為す」とあり、すでに「股のぞき」が定着していたと推定されます。
明治三八年(一九〇五)、天橋立は与謝郡の公園となり、観光開発が積極的に進められました。府中村でも、条件つきで笠山の土地ならびに休憩所を無償で寄付し、大正八年(一九一九)に傘松公園が誕生しました。これまで天橋立の眺望地点は、西国三十三所霊場の一つ成相寺を中心としましたが、近代の整備の中で、その座を傘松公園に譲ったと考えられます。
大正十一年(一九二二)、天橋立が国の名勝に指定。大正十三年(一九二四)には丹後鉄道宮津線が開通し、天橋立への観光客は大幅に増加します。くしくも、この年は吉田皆三の十三回忌に当たり、大谷寺に顕彰碑が建てられました。
天橋立は、日本を代表する名所として古代より知られてきましたが、その魅力は、多くの先人の努力によって受け継がれたものです。