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第22回 江戸時代の元伊勢参詣

印刷用ページを表示する 記事ID:0005022 更新日:2021年1月29日更新
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年代記

江戸時代の元伊勢参詣

 江戸時代の府中については史料が少なく、その具体像は不明です。ただし、貝原益軒が成相寺を訪れるなど、天橋立への参詣において重要な地位を占めたことは確実です。特に、幕末には伊勢神宮への「おかげ参り」が盛んになり、元伊勢として信仰を集めていた真名井社にも、集団での参詣が相次ぎました。

 

 宮津藩の幕末維新の出来事を記録した『年代記』によると、文政十三年(一八三〇)五月十一日、豊受太神宮が伊勢から帰国するとの噂が立ち、一宮(籠神社)の神前の扉が開いたとされています。

 

 同日より宮津城下からの参詣が始まり、職人町(現在の字宮本の一部)では組単位で幟を奉納したようです。こうした動きは盆過ぎまで続き、峰山藩、田辺藩、久美浜のほか、美作(岡山県)、因幡(鳥取県)からも、参詣があったとされています。

 

 松川龍椿の『天橋立図』には、籠神社や真名井社の周辺に無数の幟が立ち、宮津や岩滝方面から府中に小船で参詣に向かう情景が描かれています。また、江尻村に宿屋が一軒しかなかったため、余業として十五軒で宿屋の営業が許されたようで、当時の賑わいを彷彿とさせます。

 

 「おかげ参り」の歴史的意義には諸説があり、この時期の元伊勢への参詣も謎の多い現象です。旅の文化史的な究明は、まだまだ新しい研究分野といえ、天橋立の歴史を深めていく上でも、興味深いテーマです。

 

 

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