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第21回 今熊野城と阿弥陀城

印刷用ページを表示する 記事ID:0005020 更新日:2021年1月29日更新
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今熊野城と阿弥陀城

今熊野城と阿弥陀城

永正三年(一五〇六)、若狭国守護・武田元信が丹後国に侵攻し、この地も戦国時代の争乱に巻き込まれていきます。翌年には、武田元信が「府中城」に陣を張り、丹後国守護の一色義有は「今熊野城」、守護代の延永春信は「阿弥陀城」に籠城して、防戦したとされています。

 

 この時、一色義有らは、府中の街を自ら焼いたと伝えられ、その都市的景観は灰燼に帰したと考えられます。雪舟『天橋立図』は、この直前に描かれており、中世都市・府中の最後の姿を記録した貴重な資料となっています。

 

中野や大垣から成相寺に向かう参道沿いには、今熊野城跡、阿弥陀ヶ峰城跡といった遺跡が残っており、「今熊野城」「阿弥陀城」に相当すると考えられます。この時期の城郭には、石垣や天守はありませんが、草木を分け入って現地を歩くと曲輪(※)が連続してみられ、防御的な構造を実感することができます。

 

今熊野城跡の発掘調査では、深さ二メートルに及ぶ溝が検出されました。また、『成相寺参詣曼荼羅図』には、城門かと思われる建物が描かれており、これを「阿弥陀城」とする意見もあります。

 

 宮津市内では、こうした中世の城郭が、四十か所ほど見つかっています。年代や城主が不明な例がほとんどですが、戦国時代の地域の歴史を物語る大切な遺産です。

 

※城を構成する区画で,陣地や屋敷地のために作り出された平場のこと。

 

 

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