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第17回 大谷寺と智海
大谷寺と智海
現在、大谷寺は、天橋立ケーブルカー府中駅の西側から成相寺にむかう古道に沿って、静かな佇まいをみせています。しかし、かつては籠神社の神宮寺(神社信仰と仏教信仰が融合した「神仏習合」の思想に基づいて出現した寺院)として大きな寺域を誇ったといわれ、雪舟『天橋立図』には宝塔が描かれています。また、不動明王を祀る堂宇を示すと考えられる「不動」の書き込みがみられ、真言密教の名刹として強く意識されたことがうかがえます。
室町時代(1460年頃)に籠神社大聖院の住持(住職)となった智海は、多くの不動明王図を残し、真言密教の修験者として足跡を残しています。また、丹後国守護代の延永春信らとともに智恩寺多宝塔の建立に携わり、『天橋立図』に描かれた都市的景観の建設に関わった可能性があります。
まさに智海は、都市計画・設計などを総合的に行う現代の「地域プランナー」のような活躍をした人物といえ、雪舟が『天橋立図』を制作した背景に、彼の存在を指摘する説もあります。
大谷寺の境内には、智海が願主となり造られた不動明王坐像(市指定文化財)や、智海の筆跡と思われる板碑が残され、大谷寺が丹後の中世史に果たした大きな役割を偲(しの)ぶことができます。