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第8回 中野遺跡と「西寺」

印刷用ページを表示する 記事ID:0004989 更新日:2021年1月29日更新
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中野遺跡と「西寺」

 中野遺跡は、大乗寺周辺の東西約250m、南北約200mの範囲に広がる縄文時代から中世の遺跡です。大正2年(1913)に出土したとされる奈良時代の軒丸瓦が、籠神社に所蔵され、国分尼寺の可能性が指摘されてきました。

 

 宮津市では、昭和54年(1979)から発掘調査を行い、奈良から室町時代の石敷遺構や掘立柱建物跡、礎石建物跡、土坑などを検出しました。

 

 このうち奈良時代には、多量の土師器(※1)・須恵器(※2)のほか、瓦や硯がみられ、国府の一部や寺院の可能性があります。特に、須恵器には「西寺」と墨書された資料がみられ、中野遺跡の性格を解明する上で注目されます。

 

 また、平安から室町時代には、越州窯系・龍泉窯系などの青磁や、建窯系の天目碗、白磁など中国産の陶磁器が多量にみられます。国際港・博多から、日本海ルートでもたらされた可能性も高く、中野遺跡が海を介した交流の拠点だったことを物語ります。

 

 中野周辺は、江戸時代初頭には「中村」と呼ばれ、府中の中心地として意識されていたようです。府中一帯には、丹後国分寺跡のほかにも重要な遺跡が多く、なかでも中野遺跡は見逃せない存在です。

 

※1 弥生土器の系譜を引く、褐色で軟質の土器。

※2 古墳時代に朝鮮半島から伝来。窯で焼かれ、青灰色で硬質。

 

 

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