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第6回 丹後国と国府の謎

印刷用ページを表示する 記事ID:0004984 更新日:2021年1月29日更新
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丹後国と国府の謎

丹後国と国府の謎

 「丹波国加佐、與(与)謝、丹波、竹野、熊野五郡を割きて、始めて丹後国を置く」(『続日本紀』)。今から約1300年前の和銅6年(713)、丹波国北部の五郡が分割され、丹後国が誕生しました。

 

 奈良時代の「国」は、現在の都道府県にほぼ相当し、政治・行政の中心として国府が設置されました。鎌倉時代に書かれた『拾介抄』には、国府の所在地として加佐郡・与謝郡が併記され、これまで丹後国府の位置については、河守(旧大江町)・男山(与謝野町)など様々な説がありました。

 

 こうした中、宮津市府中には丹後国分寺跡や丹後国一宮である籠神社、国印や鑰といわれる倉庫の鍵を祀った飯役社など、国府と関連の深い社寺が集中し、国府の有力な候補地となっています。特に、府中一帯には、国分寺の南北軸に直交する地割が部分的に残り、国分から難波野には奈良時代に遡る遺跡が面的に広がっています。

 

 小松遺跡や安国寺遺跡など未調査の遺跡も多く、地割の施工時期や丹後国府の解明は、府中の発掘調査が重要な鍵を握っています。

 

 丹後国誕生1300年の区切りを目前にひかえ、府中地域の歴史は注目を集めると予想されます。次回からは奈良から平安時代に焦点を当てながら、府中の旧跡をみていきます。

 

 

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