ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

明智光秀の首塚も!細川家の想いが託された盛林寺

印刷用ページを表示する 記事ID:0004904 更新日:2021年2月17日更新
<外部リンク>

盛林寺 山門

 

高台にあるため眺めが良く、美しい佇まいの盛林寺(せいりんじ)は、宮津と関係の深い細川家ゆかりのお寺です。京都府内には明智光秀の首塚と伝わる場所が3か所ありますが、そのひとつとされています。

 

 

盛林寺の歴史と細川家との関わりとは​​

本堂

 

曹洞宗盛林寺は上宮津城の城主、一色家重臣小倉播磨守の菩提寺として天正5年(1577)に創建されました。創建時は宮津大久保谷(宮津湾近く)にあり、その後2度の移転。現在地に移ったのは貞享2年(1685)のこと。(写真は本堂外観)

 

趙室宗栢和尚

 

開山は趙室宗栢和尚(ちょうしつそうはくおしょう)。盛林寺の本寺にあたる越前瑞洞院(現在の福井県武生市)のお坊さんでした。

「趙室宗栢和尚は、織田信長公と対立していた越前の戦国大名・朝倉義景公の死後、越前から宮津へ来たようです。明智光秀公は越前で義景公に仕えていた時代もあることから、和尚は、越前の時より光秀公や娘玉子(細川ガラシャ)と面識があったかもしれませんね」

そう語るのは盛林寺のご住職・井笹さん。

 

三界唯心塔婆

 

写真は三界唯心塔婆(読み/さんがいゆいしんとうば、意味/三界唯心とは、仏と私たちの世界に心の区別はないという仏教の教え)。趙室宗栢和尚によって建立された大塔婆と伝わり、重さ約2トンの巨石です。

井笹ご住職「この大塔婆の刻銘を見ると、和尚の元に学問を求めて様々な身分の人々が集まってきていたことがうかがえます。キリスト教の布教活動で日本へ来ていた宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、『光秀の娘玉子が、丹後の城の近くにある禅寺の学識ある一僧侶の教えをたずね通っている』と玉子のことについてふれているんです。もしかしすると当寺に通っていた可能性もあるのでは…。」

 

 

細川家のライバル 丹後一色家との関係とは​​​

城山

 

盛林寺の真向かいの城山(写真赤矢印)には上宮津城、宮津湾の近くに大久保山城、いずれも小倉播磨守の拠城でした。丹後一色家が治める丹後を攻略せよとの信長の命により、天正6年(1578)、細川藤孝らは一色家の重臣であった小倉氏を滅ぼしました。

 

盛林寺境内

 

その後、光秀のアドバイスもあり細川家嫡男忠興の妹伊也(いや)姫を一色義定に政略的に嫁がせることにより和議を結び、藤孝は見事丹後を攻略することに成功しました。しかし“本能寺の変”が起きたことで世は混乱。一色家は光秀側につくも、細川家は逆に秀吉側につき、両家は再び対立することになります。(写真は本堂付近から見た山門)

 

本像

 

本能寺の変から3か月後の天正10年(1582)9月。忠興は宮津城へ一色義定を招きます。一説にはその際、自ら刀を抜き闇討ちにした……とも伝わっています。忠興は一色義定(通称:一色五郎)の拠城・弓木城(岩滝町)を落とし、丹後一色氏を滅ぼします。盛林寺の過去帳には「一色五郎様」として記しています。(写真は盛林寺のご本尊)

 

 

玉子(細川ガラシャ)が亡き父を供養!?明智光秀の首塚

明智光秀の首塚

 

こちらは境内の裏山にある光秀の首塚。創建当時に盛林寺があった大久保谷から現在地に移送されたものではないかと考えられています。

天正10年(1582)、光秀は「山崎の合戦」で秀吉に敗れ、敗走中に落ち武者狩りに遭い殺害されます。その首が宮津にいた玉子の元に届けられ盛林寺で葬られたと伝わっています。

宝篋印塔(読み/ほうきょういんとう、意味/供養塔などに使われる仏塔の一種)の基礎部分、向かって右には光秀の法名「条鉄光秀居士(じょうてつこうしゅうこじ)」、左には「天正十年六月十三日」と刻まれています。

 

位牌

 

こちらは盛林寺に伝わる明智光秀と一色五郎の法名が並んだ位牌です。

井笹ご住職「謀反人を祀ることは当寺にとって大変なリスク。どうして二人並んだ位牌なのか、誰がどういう思いで作らせたものなのか謎ですが、両家とも親戚関係であった細川家が供養のため作らせたのかのではないか、など想像が膨らみます。」

 

 

文化財にも指定されている細川家ゆかりの名画

掛け軸

 

盛林寺に伝わる2つの由緒ある掛け軸を拝見しました。左は宮津市の文化財指定「即安梅心童子像(あんそくばいしんどうじぞう)」。右は盛林寺の開祖「趙室宗栢和尚像」。いずれも桃山時代のもの。

 

即安梅心童子像

 

天正9年(1581)に細川藤孝の子として生まれた菊童(きく)が生後8か月で死去。趙室宗栢和尚が「即安梅心」という法号を授けました。盛林寺過去帳にも記されています。

こちらの肖像画は藤孝の妻が、幼くして亡くなった我が子を哀れみ、大きくなった姿を絵師に描かせたものだと伝わっています。桃山時代に描かれた童子の肖像としては大変貴重なものとのこと。

 

位牌

 

井笹ご住職「関ヶ原の合戦の後、細川家は功績を認められ九州の大名となりますが、即安梅心童子の位牌や肖像画はそのまま当寺に残されています。寺紋が細川家の家紋と同じ九曜紋ということなどからも、細川家の供養を託されたお寺なのかなと感じますね。」

 

細川家の家紋

 

 

四季の花が彩を添える癒しの名庭

日本庭園

 

本堂裏手には地元の人々から美しいと評判の日本庭園が広がります。裏の山から自然そのままに山水を引き入れた表情豊かな滝や池、四季の花々が彩を添える癒しの空間です。

 

 

〈データ〉

曹洞宗 大圓山 盛林寺​

京都府宮津市喜多696
Tel:0772-22-4481​

公式Facebookへのリンク<外部リンク>公式Twitterへのリンク<外部リンク>公式Instagramへのリンク<外部リンク>