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第1回 天橋立の成り立ち

印刷用ページを表示する 記事ID:0004683 更新日:2021年1月29日更新
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平安から江戸時代中期の天橋立の周辺図

天橋立の成り立ち

宮津湾と阿蘇海を隔てるように伸びる特別名勝・天橋立は、その芸術的な姿から多くの人々をひきつけ、宮津市のシンボルとなっています。

こうした自然の造形は、世屋川などから流出した砂れきが、沿岸流にのって南下した後、野田川の流れとぶつかってできたもので、長く伸びた砂浜は「砂州」・「砂嘴」と呼ばれます。

天橋立が現在の姿になったのは、江戸時代後期(約200年前)以降と新しく、それ以前には、小天橋と呼ばれる南側の砂州は存在しませんでした。文珠と砂州の間には、幅100メートル程の水道「切戸【きれと】」が横たわり、阿蘇海は入江のようになっていました。

こうした姿は、雪舟『天橋立図』などにも忠実に描かれており、天橋立を舞台とした歴史を、現代の地形に基づいて考えることは禁物です。

これからの連載では、古代から江戸時代を中心に天橋立を訪れた人たちの視点に立って、天橋立や宮津をめぐる歴史をたどります。

 

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